学びは、有用性が分からないところから始まる。
学びは、どのような有用性をもたらすか分からないところから始まる。学びに投じられた子どもは、すでに習い始めている。学び終わったときは学びの主体そのものが別の人間である、というのが運命なのです。
私が_内田先生の著書を読むようになったのは、まだサイクリングを始める前に遡る。高くなってしまった血圧を下げるために江戸サイをウォーキングしていた頃。その日は、たまたまラジオを持って出かけていました。大竹まことさんのラジオ番組で、先生の「先生はえらい」を紹介していたのだ。この偶然の重なりによって、私は先生の著書に出会ったのです。
この本も凄い本です。日本の子供たちの学力低下は、ゆとり教育のせいにされているようだが、先生は、この問題の違う切り口を見せてくれています。
学びの場で、学ぶことに対して、教師に「先生、これは何の役にたつんですか?」と聞く子供たち・・・何の役に立つか知らなければ、自分にとって有益な情報でなければ、学ぶことを拒否する子供たち・・・
内田先生は「起源的な意味での学びというのは、自分が何を学んでいるかを知らず、それが何の価値や意味や有用性をもつものであるかも言えないところから始まるものなのです。学びのプロセスに投じられた子どもは、すでに習い始めている。すでに学びの中に巻き込まれていしまっているのでなければならないのです。学び始めたときと、学んでいる途中と、学び終わったときでは学びの主体そのものが別の人間である、というのが学びのプロセスにに身を投じた主体の運命なのです」と書いています。
この考え方は、養老孟司先生が仰っていることにも相通じることであると思います。つまり、学んだことが何の役にたつかなんてことは、学ぶ主体が変わる(成長して視点が広がる)のだから想定できないわけだし、現時点の視点でこれから学ぶことを評価するなんてことは非常にナンセンスだということだと思います。