唯幻論物語
- 唯幻論物語 (文春新書)
- 文藝春秋
- 本
放漫さは卑屈さに対する反動形成であり、卑屈な者のみが放漫になる。放漫な者が放漫であり得るのは、相手が卑屈であり得ることを前提としており、そのことが予想できるのは、自分の化に卑屈な面があるからである。
《子が親から受ける被害には、欺瞞による主として精神的な虐待がある。親は、自分の目的のために子を必要としているのであるが、そのことを自分にも子にもかくして、自分は子を愛し、子のために尽くしていると思っている。
放漫さは卑屈さに対する反動形成であり、卑屈な者のみが放漫になるのである。放漫な者が放漫であり得るのは、相手が卑屈であり得ることを前提としており、そのことが予想できるのは、自分の化に卑屈な面があるからである。放漫な者は自分に卑屈に屈従してくるものを必要としており、必要としていながら彼をやけに軽蔑するが、それは自分の卑屈な面への自己軽蔑を逸らしているのである。自分の中に卑屈な面がない者は、相手が卑屈になる可能性を思いつかないので、自分が放漫になることも思いつかないのである。》
ちょっと(かなり?)古いドラマや映画だと、親(たいがいおやじ)が、子どもに向かって「誰のおかげで飯が食えると思っているんだ!」と怒鳴っていたり、母親が「あなたのためを思って…」などと涙ぐんだりしているシーンがあるが、冷静になって考えると、子どもの側には「あなたたちのもとにだけは生まれてきたくなかった…」と反論することもできないわけではない…
一方「卑屈な者のみが放漫になる」という言葉は、強い戒めになると同時に、そう言う考えを持って世界を眺めると、卑屈な私も、更に放漫になれるかもしれないと思った。