ブッダに学び、解脱を目指す。

「ディフェンスラインを上げろ!」というタイトルから、「ブッダに学び、解脱を目指す。」というタイトルに変更しました。私の関心が、仕事から人生へと変わったからです。とは言っても、このブログのテーマは、仏教ではありません。自分が幸せになるために、他の人たちにも幸せになっていただくために、釈尊に始まる仏教の智慧、哲学のアプローチ、心理学の知識を学び、活用していきたいと思います。

唯幻論物語

唯幻論物語 (文春新書)
唯幻論物語 (文春新書)
文藝春秋

 放漫さは卑屈さに対する反動形成であり、卑屈な者のみが放漫になる。放漫な者が放漫であり得るのは、相手が卑屈であり得ることを前提としており、そのことが予想できるのは、自分の化に卑屈な面があるからである。

《子が親から受ける被害には、欺瞞による主として精神的な虐待がある。親は、自分の目的のために子を必要としているのであるが、そのことを自分にも子にもかくして、自分は子を愛し、子のために尽くしていると思っている。


 放漫さは卑屈さに対する反動形成であり、卑屈な者のみが放漫になるのである。放漫な者が放漫であり得るのは、相手が卑屈であり得ることを前提としており、そのことが予想できるのは、自分の化に卑屈な面があるからである。放漫な者は自分に卑屈に屈従してくるものを必要としており、必要としていながら彼をやけに軽蔑するが、それは自分の卑屈な面への自己軽蔑を逸らしているのである。自分の中に卑屈な面がない者は、相手が卑屈になる可能性を思いつかないので、自分が放漫になることも思いつかないのである。》

 ちょっと(かなり?)古いドラマや映画だと、親(たいがいおやじ)が、子どもに向かって「誰のおかげで飯が食えると思っているんだ!」と怒鳴っていたり、母親が「あなたのためを思って…」などと涙ぐんだりしているシーンがあるが、冷静になって考えると、子どもの側には「あなたたちのもとにだけは生まれてきたくなかった…」と反論することもできないわけではない…


 一方「卑屈な者のみが放漫になる」という言葉は、強い戒めになると同時に、そう言う考えを持って世界を眺めると、卑屈な私も、更に放漫になれるかもしれないと思った。

×

非ログインユーザーとして返信する