「自己愛」と「依存」の精神分析―コフート心理学入門
2005/05/12:感想・レビュー
コフートは、人間というものは、病気をしたり、年を取ってくればどうしても自分のことばかり顧みて、他人に気がいかないのは当然であり、最終的に自己愛的になるのはあたりまえだと言っているのです。人間は、年を取ったり体が弱ってきたり病気をしたら、人に頼りなさいと主張し、人間というのは相互依存してもいいという結論を出していったのだと思います。
そしてコフートは、人間とは依存的な生き物だという結論を出しました。ですから治療室でも自立を目的にしなかったのです。自己がしっかりしてくるということは、決して自立できるようになるということではなく、周りの人間をじょうずに自己対象として利用できるようになることだと言っているのです。
上手に依存できるということもひとつの能力なのです。それはむしろ、人間にとっては成長なんだとコフートは考えているのです。
2017/04/03:感想・レビュー
齋藤環先生の『生き延びるためのラカン』を読み始めた時、そう言えば、佐藤優氏の『嫉妬と自己愛』に収録された対談で、齋藤先生が「自己愛を徹底的に軽蔑したラカンに対して、コフートは“人間は自己愛がないと生きてはいけないのだ”と唱えた」と仰っていた。齋藤先生の本を読み進めるに当たって、コフートについても知っておいた方が良いかもしれない、と、2005年に読了した、この本を引っ張り出しきた。アドラー心理学などに出会った後で読むと、12年前に読んだ時よりも、コフートの治療者としてのスタンスが、理解できるような気がする。
私は、コフートも試みていたように、自己分析のために精神分析や心理学、哲学の本を読んでいるのですが、この本は、そのような読者のために書かれたわけではなく、コフートという人物を知りたい人のための本のようなので、12年前の私にとっては期待はずれのところがあったようです。それでも、フロイト、ユング、アドラーとの対比は興味深く、精神分析の世界を切り拓いた人達に思いを馳せました。
精神分析にしても、心理学にしても、その世界を切り拓いた人の生い立ちに彩られたキャラクターが色濃く反映される世界なのだと思いました。極論すれば、その人の研究の軌跡、ある意味「人生そのもの」を肯定するために構築された学問と言っても言い過ぎではないのかもしれません。もしかしたら、イエスの「隣人を自分のように愛しなさい」に収斂して行くのかもしれませんね。
私が共感する「精神分析」の考え方は、自分自身と対峙する人たちによって創出され、継承されているような気がします。その人たちが臨床で出会うクライアントとの交流を通して、より深く自分自身を見つめ、その無意識の中に、様々な葛藤を発見し、言語化して客観的に分析するプロセスを経て、無意識は意識化され自我に取り込まれます。そして強固な学問になるのです。
一般!?向けに出版されている精神分析、心理学、哲学の書籍が、それぞれ、読者に知識を与えようとしているだけなのか、行動変容を促しているのか分かりませんが、この本は、どちらかというと、知識系♪