こんな日本でよかったね 構造主義的日本論
- こんな日本でよかったね 構造主義的日本論
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私たちは自分に見えているもの(自分の理解)が現実だと信じている。しかし、よく考えてみよう。それは、自分が今まで生きてきて経験してきたことを通して見えているものであり、理解していることなのではないだろうか?つまり自分と異なる人生を歩んできた他人、自分と異なる経験を持っている他人と同じものを見ても、同じように見えて、同じように理解している、とは言えないのではないだろうか?むしろ同じものを見ても自分と他人とは見え方も理解のしかたも異なって当たり前とは言えないだろうか?
自分に見える世界に満足することなく、相手に見える世界に耳を傾け、現実をより明確に見たいと思うことこそ、生きることへの意欲を生み出す源泉であり。現実をより明確に見えるようにすることこそ、生きる目的なのではないかと思える。
自分の言葉が自分の世界の境界である…私たちは言葉にできないものを考えることができない。それゆえ、私たちは考えることのができないものを語ることができない。世界は私の世界であるということは、言語〔それだけを私が理解している言語〕の境界が私の世界の境界を指示しているということのうちにあらわれている。形而上学的主体は、世界に含まれているのではない。それは、世界の境界なのだ。
あとがきより…
構造主義というのは~中略~「自分の判断の客観性を過大評価しない」という態度です。~中略~「自分の眼にはウロコが入っていることをいつも感情に入れて、『自分の眼に見えるもの』について語る」
内田樹先生は続ける…「私のウロコを通して見える世界」と「あなたのウロコを通じて見える世界」を突き合わせて、その異動の検証を通じて、直接的にはだれにも見ることのできないはずの「現実」を再構成することは(論理的には)可能だからです。…と。
ということです。・・・
「私のウロコを通して見える世界」に満足することなく、「あなたのウロコを通じて見える世界」に耳を傾け、現実をより明確に見たいと思うことこそ、生きることへの意欲を生み出す源泉であり。現実をより明確に見えるようにすることこそ、生きる目的なのではないかと思えてくる。