錯覚する脳: 「おいしい」も「痛い」も幻想だった
意識は行為の主体ではない。行為の主体は、無意識の小人たちの自律分散演算の側にあり、意識の側にはない。意識は行動の主体というよりも、無意識下の結果を受動的に受け取って、それが我であるかのように勘違いしているイリュージョンだと考えた方が合理的であって、あらゆる知見のつじつまが合うということを、論理としてせつめいしているのだ。
価値とは、人間が勝手に作りあげた概念に過ぎない。人の命は、本来ある普遍的な属性として尊いわけではない、現在からほんの少し時代をさかのぼれば、命が粗末にされていた時代だったのだ。絶対的な価値などない。尊いかどうかは、人が決めるものに過ぎない。文化的文脈にしたがって、その社会がその社会の価値やルールを共有すべきなのだ。