ブッダに学び、解脱を目指す。

「ディフェンスラインを上げろ!」というタイトルから、「ブッダに学び、解脱を目指す。」というタイトルに変更しました。私の関心が、仕事から人生へと変わったからです。とは言っても、このブログのテーマは、仏教ではありません。自分が幸せになるために、他の人たちにも幸せになっていただくために、釈尊に始まる仏教の智慧、哲学のアプローチ、心理学の知識を学び、活用していきたいと思います。

怒らないこと 怒らないこと 2


・導師の言葉は、必ず響く時がやってきますので、いつも傍らに置いておきたい本です。人生の節目で読み返すことによって、自分自身がどこに向かって生きているのか、問い直す切っ掛けにしたいと思います。

 アルボムッレ・スマナサ―ラ長老は、仰います。 人間というものは、いつでも「私は正しい。相手は間違っている」と思っています。 「私は完全に正しい。完全だ。完璧だ。あいての方が悪いんだ」と思うから、怒るのです。

 これらの言葉を意識しているひとはいないと思いますが、自分の思い通りにならない時、人は怒りの感情が込み上げてくるわけですから、意識していなくても潜在意識では「自分は正しい。相手は間違っている。相手の方が悪いんだ」と思っているわけです。

 そして、我々がこの世の中で落ち着いて生きられる秘訣は、 「自分は完全ではないし、他人にもけっして完全な結果を求めない」 私も、他人も、誰も完全ではない「完璧にうまくいく」ということはあり得ないと知ることなのです。

 長老は「怒りが生まれると同時に、怒りは自分を壊し、自然を破壊し、挙句の果てに他人の幸福まで奪います」と仰います。私たちは、幸せに暮らすために生きているはずです。ですから、この本の教えを学び、怒りの感情をコントロールできるようになりたいものです。

 私たちは誰もが、自分の人生が「まんざらではないよね(・・?」と確認し続けなければならない存在なのではないかと思います。そして、その過程では、どうしても、自分と他者との比較が必要になってきます。

 自分の価値観・行動原則という物差しを自分と相手に押し付ければ、自分は正しくて、相手は間違っている、という結論になりがちであることは、当たり前のことだと思います。だからこそ、私たちは、できるだけ客観的に物事を判断しなければならないのでしょう。

 私たちが誰でも、心の底では「自分が完全ではないこと、相手も完全ではないこと」を知っています。でも、そんな自分には甘くなり、相手には厳しく完全を求めてしまいがちです。

 自分も相手も「自分自身を最もかわいがってしまいがちな人間である」ことを思い出し、自分にも相手にも少しゆるい物差しを当てるようにすれば、苛立ちがちな世界は、清々しい世界に少しずつ変わるかもしれません。

 仏教への知識が増えたところで読むと、導師が仰ることの意味が良く分かります。平易な言葉で書かれてはいますが、そういう意味では、まさに間口が広く奥が深いのだと思います。私たちは、自分を蔑ろにされたと感じた時、ついつい相手に怒りを向けることによって、損なわれたプライドを取り戻そうとしてしまいがちですが、実は、その行為が自分という人間を自分自身で貶めることになってしまっているのです。

 導師の言葉は、必ず響く時がやってきますので、いつも傍らに置いておきたい本です。人生の節目で読み返すことによって、自分自身がどこに向かって生きているのか、問い直す切っ掛けにしたいと思います。
・なにかをやろうとするときには、欲でするのも、怒りでするのもだめなのです。必要なのは、喜びを感じることです。喜びこそが「生きることは苦」という現実を緩和してくれます。

 >勉強はできれば怠けたいけど、やらなくてはいけない。だから奮い立たせる。ライバルをつくってその人を「軽視」して「俺の方がすごい」と思ったりします。このやり方では、結局うまくはいきません。「ライバルに勝ちたい」だけで「勉強したい」という気持ちは無いから…。~

 アルボムッレ・スマナサーラ長老は、私たちの心が「怒ること」によって蝕まれることの恐ろしさを繰り返し突き付けてきます。長老の眼には、それだけ私たちの築き上げた社会が、自分だけが幸せになりたいという、怒りのエネルギー突き動かされているように見えるのでしょう。

 人には、「誰かの役に立っている」という実感が必要です。小さなことでも、「私はけっこう役に立っているんだ」と思えれば、楽に生きられます。なにかしらできることはありますから、それをしっかりとやればいいのです。~

 長老は、仰います。「生きることは苦」です。そして「それでも苦は嫌だ」というのが生きるシステムです。しかしながら、一切のものごとは無常で、けっして一瞬たりとも同じではありません。「それなら、しがみついたって価値がないだろう」と諦めて、無執着の心が生まれるのです。それを仏教は「覚り」と呼びます。と
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