ブッダに学び、解脱を目指す。

「ディフェンスラインを上げろ!」というタイトルから、「ブッダに学び、解脱を目指す。」というタイトルに変更しました。私の関心が、仕事から人生へと変わったからです。とは言っても、このブログのテーマは、仏教ではありません。自分が幸せになるために、他の人たちにも幸せになっていただくために、釈尊に始まる仏教の智慧、哲学のアプローチ、心理学の知識を学び、活用していきたいと思います。

こんな日本でよかったね 構造主義的日本論

こんな日本でよかったね 構造主義的日本論
こんな日本でよかったね 構造主義的日本論
文藝春秋
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 私たちは自分に見えているもの(自分の理解)が現実だと信じている。しかし、よく考えてみよう。それは、自分が今まで生きてきて経験してきたことを通して見えているものであり、理解していることなのではないだろうか?つまり自分と異なる人生を歩んできた他人、自分と異なる経験を持っている他人と同じものを見ても、同じように見えて、同じように理解している、とは言えないのではないだろうか?むしろ同じものを見ても自分と他人とは見え方も理解のしかたも異なって当たり前とは言えないだろうか?


 自分に見える世界に満足することなく、相手に見える世界に耳を傾け、現実をより明確に見たいと思うことこそ、生きることへの意欲を生み出す源泉であり。現実をより明確に見えるようにすることこそ、生きる目的なのではないかと思える。


 自分の言葉が自分の世界の境界である…私たちは言葉にできないものを考えることができない。それゆえ、私たちは考えることのができないものを語ることができない。世界は私の世界であるということは、言語〔それだけを私が理解している言語〕の境界が私の世界の境界を指示しているということのうちにあらわれている。形而上学的主体は、世界に含まれているのではない。それは、世界の境界なのだ。


あとがきより…

 構造主義というのは~中略~「自分の判断の客観性を過大評価しない」という態度です。~中略~「自分の眼にはウロコが入っていることをいつも感情に入れて、『自分の眼に見えるもの』について語る」

 内田樹先生は続ける…「私のウロコを通して見える世界」と「あなたのウロコを通じて見える世界」を突き合わせて、その異動の検証を通じて、直接的にはだれにも見ることのできないはずの「現実」を再構成することは(論理的には)可能だからです。…と。

ということです。・・・


「私のウロコを通して見える世界」に満足することなく、「あなたのウロコを通じて見える世界」に耳を傾け、現実をより明確に見たいと思うことこそ、生きることへの意欲を生み出す源泉であり。現実をより明確に見えるようにすることこそ、生きる目的なのではないかと思えてくる。

お客さま!そういう理屈は通りません


 クレーマーを黙らせる最善手は、その場にふさわしい語句を選び、言葉として発することなのだ。

 日頃から多くの言葉に触れ、ストックを増やしておくことによって、いざというときに最適な語句がでてくる。クレーム対応には語彙力が不可欠なのだ。

 お客様からのお申し出に対応する「お客様相談室」に携わる人はもちろん、人から感情的な人だと思われたくないすべての人のために・・・

 客を不必要に刺激しなければ、新たなクレーマーは生まれない。意図的に「いちゃもん」をつけてくる輩も、こちらがつけ込まれる隙を見せなければ、そのうち電話をかけてこなくなる。

 個人事業主というものは往々にして、企業に足元を見られがち。小さな会社につとめる人ほど、事前の「防災」が重要なのである。たとえ相手が大企業でも、毅然とした態度をとっていなければ、不当な要求を飲まされてしまうのだ。

借りのある人、貸しのある人


 大事なのは、やっかいことや心配ごとも引き受けながら、目の前の現在を精いっぱい生きることだ。そうしながら、自分のなかに、瞑想し自省するゆとりも残しておく必要がある。


 真の意味での老化とは、希望も自信もなくしてしまうことだからだ。本当の老化は、夢も見ず、自分の可能性にも見切りをつけたところからはじまる。人生は、情熱であり欲望であり、かいま見えるだけで手に入れていないことへの、渇望であるはずだ。無に向かって走り、自分の創造力でそこを満たすことである。予測できず、変化に富み、絶えず新たに生まれ変わるものなのである。

 抜粋した部分は、前向きな部分であるが、この本は、基本的に事実を突き付けてくる怖い本である。世の中には、借りのある人と貸しのある人があり、借りのある人とは、他人のためにもてる力を惜しみなく使っても、それでもまだまだ足りなくて、十分やったという気がしない人である。一方、貸しのある人とは、他人が何かしてくれてもそれは当然のことで、それどころかまだ足りないくらいだ。貸しはいつまでたっても無くならない人である。


 さて、あなたは、いつまでも貢ぎ続ける 借りのある人だろうか? それとも、いつまでも貰いつつける 貸しのある人であろうか? 損なのは、借りのある人で、得なのは、貸しのある人であるが、あなたは、それで良いのですか?

自分に適した仕事がないと思ったら読む本


 どんなプロでも最初は素人です。彼らのいる場所さえ見失わなかったら、必ず追いつけます。「自分の知らなさ加減を知れ」、あるいは「自分の水準を知れ」といったことになるでしょうか。到達すべき水準を知っているかどうかが重要です。


 ベテランとおなじものを作るには、自分に何がたらないかを考えることです。それを補うことで目標に近づけます。はじめは足らないものだらけでかまいません。いかに遠い道のりであろうと歩みを止めなければ、いつかは目的地にたどり着きます。

 匠の技は、よく暗黙知と言われますが、今や匠の技を持ち、素人との溝を見せつけているのは、工匠や大工だけではありません。例えば、英会話を例にとっても、単にTOEICで高得点が取れる人と、英語圏の歴史や文化、宗教などに精通している人とを比較した場合、当然のことながら後者の方が匠であり、相手とのコミュニケーションが円滑になるわけです。


 また、鍛冶屋のような職業であっても、経験だけではなく、科学的な知識を動員し、どのような素材をどのような工程で加工すれば良いものが出来るかを研究しているような人が、現代社会における匠なのです。そうです。後からスタートして追いつく方法は、背景の理解なのです。

ザ・マインドマップ


 トニー・ブザン氏、バリー・ブザン氏は、違うと言うかもしれないけれど、私は、マインドマップの効能効果は、画像で頭に留めることだと思う。整然と書かれたノートの場合、私たちの記憶は言葉である。しかし、マインドマップの場合は、あのマップのこの辺に描いてあったはず。そんな感じで、思いだせるような気がする。

 また、整然と書かなくて良いので、正解ばかりではなく、何でも描ける。不自由な状態から、自由な状態になるのだ。どちらが想像的になれるか言うまでもないだろう。それに、描くことが楽しくなる。いろんなものを描きたくなるということは、いろんなことを考えるようになるということだ。さあ、始めよう。

 私も、を何度か試してみたけれど、この手法で何かを生み出せるところまで到達できていない。 こうして話題になる手法なのだから、何かを創造するためや問題を整理するために有効な手法であることは間違いないと思うが、使い方や作ったものの理解の仕方には習熟が必要みたいだ。 おそらく、きちんと描こうとするために、発想が縮こまっているのだと思う。この方法は、もっと自由な使い方で良いのだと思うし、自由であるからこそ、ビジュアル的に記憶に残り、脳のメモリーを助けてくれるのだと思う。