ブッダに学び、解脱を目指す。

「ディフェンスラインを上げろ!」というタイトルから、「ブッダに学び、解脱を目指す。」というタイトルに変更しました。私の関心が、仕事から人生へと変わったからです。とは言っても、このブログのテーマは、仏教ではありません。自分が幸せになるために、他の人たちにも幸せになっていただくために、釈尊に始まる仏教の智慧、哲学のアプローチ、心理学の知識を学び、活用していきたいと思います。

密教の聖地 高野山

 高野山は、9世紀の初め、弘法大使こと空海が創った、空海は、真言密教の教えを若いころから学び、中国で自らの教義として発展させた。空海は、高野山を真言密の教え広める理想郷とにしようとしたのである。


 空海の本名は佐伯真魚(さえきのまお)という。24歳のときには、儒教と道教、そして仏教の3つの教えを比較し、その上で仏教が優位であることを論証した『聾瞽指帰』という書物をあらわし、仏教の道を志すことを宣言した。延暦23年(804年)すでに僧となり「空海」と名乗っていた彼は、検討しに随行する留学生に選ばれ、最澄と同じときの遣唐使船に乗って唐に渡っている。


 このとき空海は、大使と同じ第1船に乗っている。最澄は第2船である。最澄が中国天台宗のの中心である天台山に赴いたのに対し、長安に渡って半年後、空海は遣唐大使の一行とともに真言密教の第一人者である青龍寺の恵果(けいか)和尚を訪ね、また半年にわたって師事する。


 恵果は、空海を見込み、密教の奥旨をすべて伝え「遍照金剛」の名を授けた、そして「早く日本に帰り密教を広めよ」と遺言して亡くなった。幸い恵果という恰好の師を得ることで、密教を日本に伝えることに成功した。


 宗教学者の島田裕已氏は著書の中で、以下のように書いている。


「空海が儒教を学んだ叔父の阿戸大足は、桓武天皇の第三皇子であった伊予親王に学問を教えており、相当の学者だったことになる。なおかつ官僚を養成する大学寮に入ったということ、『聾瞽指帰』は、空海自筆のものが残されていて国宝にも指定されているが、戯曲風の構成である上に、中国六朝時代の四六駢儷体が用いられていることから、空海がエリート中のエリートであったととらえた方が首尾一貫している。」


 弘仁7年(816)、空海は修禅の道場として高野山の下賜を嵯峨天皇に請い、許しを得た。開創から15年間、空海は悩み苦しむ者に救いの手を差しのべようと精力的に活動した。高野山はもちろん、同じく嵯峨天皇から与えられた平安京の東寺を拠点として全国に教えを広めていったのである。


 空海は、天長8年(831)頃から体調を崩し「私の願いは世界宇宙がなくなるまで、そこに住む生命がなくなるまで、そして人間が全て悟りに到達するまで終わらない」という意の言葉を残した後、一切の穀物を立ち隠棲。そして承和2年(835)、入定した。


 それ以来、1200年間、高野山は絶対的な「聖地」として安泰を保ってきたわけではない。日本の歴史は闘争の歴史と言っても過言ではないが、高野山も大小さまざまな争乱に巻き込まれ、一時は滅亡の危機に瀕したり、戦争によって全山が危うく焦土と化す状況に追い込まれたこともあった。


密教の聖地 高野山 (サンエイ新書)
密教の聖地 高野山 (サンエイ新書)
三栄書房
2018-01-06
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