密教の聖地高野山 その地に眠る偉人たち
虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願も尽きん
高野山は、9世紀の初め、弘法大使こと空海が創った、
空海は、真言密教の教えを若いころから学び、中国で自らの教義として発展させた。
- 密教の聖地 高野山 (サンエイ新書)
- 三栄書房
- 2018-01-06
- 本
空海は、高野山を真言密の教え広める理想郷とにしようとしたのである。
それ以来、1200年間、高野山は絶対的な「聖地」として安泰を保ってきたわけではない。日本の歴史は闘争の歴史と言っても過言ではないが、高野山も大小さまざまな争乱に巻き込まれ、一時は滅亡の危機に瀕したり、戦争によって全山が危うく焦土と化す状況に追い込まれたこともあった。
弘仁7年(816)、空海は修禅の道場として高野山の下賜を嵯峨天皇に請い、許しを得た。開創から15年間、空海は悩み苦しむ者に救いの手を差しのべようと精力的に活動した。高野山はもちろん、同じく嵯峨天皇から与えられた平安京の東寺を拠点として全国に教えを広めていったのである。
空海は、天長8年(831)頃から体調を崩し「私の願いは世界宇宙がなくなるまで、そこに住む生命がなくなるまで、そして人間が全て悟りに到達するまで終わらない」という意の言葉を残した後、一切の穀物を立ち隠棲。そして承和2年(835)、入定した。